ホーム 芸能人プロフィール・現在 坂本龍馬の身長は当時どれくらい高かった?幕末の巨躯と称された体格や証言の真相を徹底解剖

坂本龍馬の身長は当時どれくらい高かった?幕末の巨躯と称された体格や証言の真相を徹底解剖

篠宮 拓也 篠宮 拓也 • 更新: • 公開: • 読了約 9 分
目次

幕末の動乱を駆け抜け、日本の近代化に多大な影響を与えた坂本龍馬。歴史の教科書やドラマでは、堂々とした立ち振る舞いや大柄な人物像として描かれることが多く、その具体的な体格に興味を抱く人は少なくありません。現代において「当時の日本人の平均身長」と比較してどれほど大きかったのか、また幕末を生き抜いた目撃者たちの記録にはどのように記されているのでしょうか。

本記事では、原考徳や豊川良平といった関係者によるリアルな実録資料をもとに、坂本龍馬の身長や体格、さらには武市半平太や千葉定吉をはじめとする周辺人物との関係、北辰一刀流で鍛え上げられた剣豪としての風貌の真相に迫ります。

坂本龍馬の基本プロフィールと生い立ちの背景

坂本龍馬身長

坂本龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)で、土佐藩郷士(下級武士・足軽)である坂本直足(八平)と母・幸の間の次男として生まれました。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家であり、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されていたため、下士という身分でありながら非常に裕福な家庭環境で育ちました。

幼少期から青年期にかけての龍馬は、決して優等生タイプではなく、むしろ手のかかる子供として知られていました。しかし、剣術の才能と身体を動かすことへの情熱は並み外れており、嘉永6年(1853年)には武術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許されています。この江戸遊学が、龍馬のその後の人生や体格形成、そして剣客としてのキャリアにおける重要な転換点となりました。

北辰一刀流の修業と「桶町千葉道場」での日々

江戸に到着した龍馬は、築地の中屋敷などに寄宿しながら、北辰一刀流の桶町千葉道場(現在の東京都中央区)の門人となりました。道場主である千葉定吉は、北辰一刀流創始者である千葉周作の弟であり、その道場には定吉のほかに長男・重太郎や3人の娘(そのうち一人は龍馬の婚約者とされるさな子)がいました。

当時、身分制度が厳しかったため上級武士は玄武館(大千葉)の所属、下級武士は小千葉道場所属とはっきり分かれていましたが、龍馬は下士の身分でありながら小千葉道場で懸命に腕を磨きました。兵学においても窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得するなど、文武両道にわたる素養を身につけていきました。この厳しい剣術修行の日々が、後に「幕末の巨躯」と称される筋骨隆々な体格を作り上げる土台となったことは間違いありません。

原考徳の証言が語る龍馬の肉体と独特の癖

龍馬の実際の容姿や体格を知る上で極めて貴重な資料が、昭和6年に聞き取られた原考徳の談話です。原は幼少期を回顧し、次のように語っています。

「龍馬は子供好きなりし故、予も戯れて其背中に飛び付き負はれなどせり。然るに龍馬は生まれつき毛深き性にて、其の胸にも背にも長き毛生ひたり。夫れを人に恥ぢて自分の肌を見らるることを厭ふしよし。故に予の母しばしば予を戒めて、汝龍馬氏に戯れるとも決して其の衣襟をかきはたけたり杯すること勿かれと諭されたり」

加えて、原は龍馬の歩き方や体格について「龍馬は右肩か左肩か片方の肩を怒らして歩行く癖あり。色は浅黒き方なりし、肩の上に大きなる黒痣あり…躯幹偉大にして、武市も背高き人なりしも、坂本はも少し丈夫にて大きく見えたり」と述懐しています。土佐藩の盟友である武市半平太も背が高い人物として知られていましたが、それ以上に坂本龍馬はより頑強で大きく見えたという証言は、当時の男性の平均身長(約155〜160センチ前後)を大きく上回る大柄な体躯を裏付ける有力な証拠となっています。

豊川良平の回顧に見る龍馬の体格と温かな人柄

もう一つの重要な証言が、幼少期に龍馬から手厚い世話を受けた豊川良平によるものです。豊川は、龍馬の容貌と実際の体格について次のように記憶しています。

「背丈高く肉附が良く、恰度今の海軍々令部長島村大将(島村速雄)に彷彿たる格好で風貌魁偉な處にも何処やらに優しみのある柔和な顔であったと記憶する」

当時八歳だった豊川が安政のコレラで母親を亡くした際、龍馬は毎晩のように訪ねては子供を親身に慰め、九歳の正月には足袋が間に合わなくて困っているのを見て、祖母を手伝って片足の足袋を逞しい指先で縫ってくれたという心温まるエピソードが残されています。風貌魁偉で巨躯でありながら、子供に対しては優しく接するそのギャップこそが、多くの志士や民衆を惹きつけた龍馬の人間的な魅力の本質でした。

幕末の志士たちの体格比較データ表

幕末期における主要な志士たちの体格や特徴を客観的な記録をもとに整理すると、当時の日本社会における彼らの身体的スケールの大きさがより鮮明になります。以下に当時の証言や記録に基づく比較表を示します。

人物名 身分・立場 体格・身長に関する主な記録・証言 特記事項・容姿の特徴
坂本龍馬 土佐藩郷士 / 亀山社中・海援隊 「躯幹偉大」「武市よりも丈夫にて大きく見えたり」 背が高く肉付きが良い。胸や背中に毛深い特徴があり、右または左の肩を怒らせて歩く癖があった。
武市半平太 土佐藩郷士 / 土佐勤王党 「背高き人なりし」との証言あり 長身で知られたが、体格の頑強さにおいては龍馬のほうがより大きく見えたとされる。
千葉重太郎 北辰一刀流桶町千葉道場 剣客としての優れた体格と技量を保持 龍馬の剣術修行の良きパートナーであり、道場を支えた中心人物。

亀山社中・海援隊の組織運営と龍馬の行動力

身体の大きさだけでなく、龍馬はその行動力においても規格外のスケールを持っていました。脱藩後は諸藩の志士たちと交わり、貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中」(のちの海援隊)を結成。薩長同盟の成立を裏で支えるなど、日本の歴史の方向性を大きく転換させる原動力となりました。

一方で、その経済状態は常に順風満帆というわけではなく、開成館長崎商会主任であった岩崎弥太郎(のちの三菱財閥創業者)の日記には、しばしば金の無心に訪れる海援隊士を「厄介もの」と書き残されるなど、泥臭い現実と向き合いながら奔走していました。大柄な体躯で豪快に全国を駆け巡る姿は、まさに幕末という激動の時代を象徴するものでした。

【坂本龍馬身長】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:坂本龍馬の実際の身長は何センチくらいだったのですか?
A1:現代のように正確な健康診断の数値としては残っていませんが、当時の日本人男性の平均身長(約155〜160センチ前後)を大きく凌駕し、生存時の証言で「躯幹偉大」「背丈高く肉附が良い」と称されたことから、およそ170センチ前後に達していたと推定されています。

Q2:当時の幕末の人物と比べて、龍馬の体格はどのくらい大きかったのですか?
A2:同郷の武市半平太も背が高い人物として知られていましたが、目撃証言では武市よりもさらに頑強で大きく見えたとされており、当時の武士の中でも際立った巨躯の持ち主でした。

Q3:龍馬の容姿や風貌について、他にどのような特徴が伝えられていますか?
A3:原考徳の証言によれば、生まれつき毛深く胸や背中に長い毛が生えていたこと、浅黒い肌で、片方の肩を怒らせて歩く癖があったことなどが伝えられています。また、鋭い剣客の顔立ちの裏には、子供に対して優しく接する柔和な表情もあったとされています。

坂本龍馬の身長や体格に関する実録資料や証言を検証すると、単に体が大きかったというだけでなく、北辰一刀流で鍛え上げられた強靭な肉体と、周囲の人々を惹きつける温かな人間性が一体となっていたことがわかります。当時の日本人としては驚異的な巨躯を誇りながらも、細やかな気配りや柔軟な発想力で時代を切り拓いた龍馬の姿は、現代の私たちにとっても色褪せない魅力を放ち続けています。

同じカテゴリの記事

篠宮 拓也

アイドル・グラビア担当として4年以上の取材経験。idol領域の公式発表・配信元の告知を一次情報として確認し、確認できない情報は記事に含めない方針です。

おすすめの関連記事